昭和49年12月04日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
天地を指しておられる訳です。天地そのものが神と。空を仰ぎ地を伏し拝むと、そのまヽが神様を対象にしておると。金光教ではどういう神様を対象として拝むのかと。結局天地を対照にしておるということになります。そこで天地そのものが、神様として頂けれる、実感とでも申しますかね。そのためにその天地の芯というか、天地の心が段々解らせて貰わねばいけません。
天地の心がわかる。天地の道理がわかる、または天地の御恩徳がわかる。そこで道理に合うた生活が出来る様になる。天地の道理に合うた生き方が出来る様になる。成るほど今まで、天地の道理に反した生き方ばかりしておって、人間が幸せになる筈がないことがわかる。天地の御恩徳がわかる。天地の御恵みがわかる。そこでそのお恵みに対して、押し頂く心が神恩奉謝の心である。
ですから如何に神様にこれが神様だ、天地が神だと言うても、神様に神恩奉謝の心が生れなかったり、道理に合うた生き方が出来なかったりしたのでは始りません。所謂おかげにつながらんのです。天地の心を心としてと言う事になりましょうか。そこで天地の心を心としてのおかげを頂くための信心修行が、手許足許の所から解って行かねばならんのです。そこで私は今日思うのですけれど、神に会おうと思えばです。先ず庭の口を外へ出て見よと仰るが是が神様だなと、あまりにも漠然としておる。
ひしひしと天地の御恩徳を、身に心に感ずると言う事になって参りますと、天地の間のすべての出来ごとというか、ありのまヽの姿そのままに、神様のお姿が感じられ、神の声を聞き、する事が段々出来る様になりますけども。そのためには矢張り、身近な所に神様を感じられる稽古が要るのです。そこで誤解して頂かん様にして下さいですけれども、神に会いたいと思えば、お広前に出てみろと言う事が言えると思うです。
だから皆さんの場合は、すぐ天地に出ただけではね、み教えには天地そのものが神だと教えられるけれども。天地にすがった所でです。はっきりと天地の働きを、自分の身に心に感ずることが出来ないなら、それが出来る事の為にです、先ず一つ合楽通いを本気でしてみるのです。そこにねはぁこれが神かと言う事が、段々解って来るのです。それはどう言う事かというと、ほんなら私がです毎朝三時半に出ます。そして石庭がここにございます。ここは天地書附けを、そのまヽ配石してあるのです。
配石が天地書附け。だから庭を拝み空を拝み、天地を合楽のここの一角から、拝ませて頂くのです。或る時に私がいつも、一日のおかげのエネルギーとでも申しましょうか。そういうものに、改めて触れる一瞬の間ですけれどもそれを感じます。ここへ出て天地を遙拝します時に。或る時私は拍手して丁度今は、北斗七星が私が拝むここに出てます。その北斗七星が、空を見上げる一つの目指しなんですけれども。
そしたら私の心眼とも肉眼ともわかりませんけれども、大空一杯の三代金光様を頂きました。大空一杯に三代金光様の御姿を頂いて、身がしびれる思いがしたことがございます。ですから生神金光大神様を拝する時に、天地を感ずる。私共は三代金光様のお取次を頂いて、今日の合楽があるわけですけれども。だから私共その時分に、御本部参拝をさせて頂く時に、それこそ神に会いたいと思えば、大谷金光に行けばそこに生神を拝する事が出来た。これがそのまヽ神の姿だ。真に地上の太陽として拝ませて頂いた。
それをもう少し砕いてと言うか、小さくと言うか神に会いたいと思えば、合楽のお広前にということになる。さしずめ私が生神金光大神の、仮の姿と思える所まで、信心を高めて行かねばいかん。私が生神の徳を受けておる訳じゃありませんよ。けれどもここに段々お参りしておりますとですね、これが生神の姿だと働きだというものを、お広前に感ずることが出来る様になるです。
いうならどんな悩みも心配もです。そこの障子を開けて入って来た途端に、例えば私が、ここに座っておる姿にチラッと横目に触れただけでもです。心配が解消するというじゃないですか皆さん。だからお届けしょうと思うて、これを今日は親先生に聞いてもらわねばと思いよったけれども、もうその心配は聞いて貰う事は要らなくなる程に、おかげを皆さん頂いとるじゃないですか。それは皆さんの信心が、そこまで高められたと言う事です。私は変わりはない。
けれども生神金光大神の御取次の手代りとしてです。いわゆる親先生が拝める様になる。久富繁雄さんの言葉を借りるとです。親先生は私の心の太陽だという風に言っておられます。いつも自分の心の中に親先生が、自分の心一杯に拝めれる訳です。金光様の信心を進めて行くことは、そういう事だと思うです。それが親先生だけではない。家内が拝める様になり、子供が拝めれる様になり、畠に出ては野菜が拝めれる様になり、自分の周辺の全てが拝めれる様になる時に、私は初めて天地の中の一切のもの。
いうならば天地の働きそのものが、神様の働きとして頂ける様になる。それを合楽では、全ての事を御事柄として受けれる様になって来るというのであります。今まではそこまで信心が進まなかった間は、甘いものはよいけれども、辛いものは嫌。甘いものはよいけれども、苦いものは嫌、臭いものは好かんと。こういう風な頂き方をしておったものがです。甘いもなからなければ辛いもない。
苦いも臭いも一切が神様の下さるものとして、御働きとして、頂ける様にならせて頂いたら、いうならば偏食をしなくなったから、心が健全になったと言う事になるのです。心の健全です。何を頂いても当たらん。どういう問題にぶつかってもへこたれない。そこに初めてこの御教えが、段々天地がそのまヽ神様だと仰せられる内容がわかって来る。まずそれには小さい神様から一つ解って行く事だという事なんです。
どうでしょうか、神に会いたいと思えば、合楽のお広前に行って見よ。そこに神を見ることが出来ると、感じれる程しの信心を頂いておられる方達が、どの位あるだろうか。最近、とやこう取り沙汰されながらも、合楽の大黒天奉斉が、益々多くなって行っておる。それは、お互いの家庭の中に、神様をそこに見ることが出来れる。お広前まで行かんでも、合楽まで行かんでも、そこに大黒様を奉斉する事に依って、そこに親先生を見ることが出来、親先生の働きを、そこに感ずる事が出来る。
先日から麻生さんがお参りをして見えて、大黒様を奉斉さして頂く様になりましたら、子供達が大変おかげ頂く様になりました。上がまだ一年生か二年生でしょうか、三人子供に恵まれておる。三人の子供達がです、ジュースを頂いてもアメ玉を頂くでもです。まず親先生にお供えしなきゃ頂かん。勿論お母さんがそう教えておるとでしょう。早う親先生にお供えしていらっしゃい。
ジュースやらアメ玉が一杯前にお供えしてある。それを頂く為にはどうしても、親先生ば拝まにゃ頂かれん。それで大黒様の前で一生懸命拝むそうです。親先生そのアメ玉が頂きたいジュースが頂きたいという訳なんでしょう。麻生さんの一家ではそこに神様を見ることが出来ておられる訳であります。姿形は大黒様の木彫であったり、金物でありますけれども。その芯に皆さんの拝む心の中にあるものは合楽の親先生である。
先日三十日の月末御礼会がございました。一日の御祈念を終わってしまって、皆集まって来て一月の上のおかげ話を、ここで皆さんが披露される訳です。その中に秋永嘉朗さんが、発表しておりました。大黒様ばお祭りしておる間は、本当に金銭の上にでんどんどんおかげを頂いた。所がこの頃はいっちょんきかん事なったという話でした。皆さんどうでしょうか、初めはようお届けがありよったです。
本当金銭のお繰り合わせ、本当に不思議な事だと言うて、この頃お届けが少なくなったという所は、利かんごつならっしゃったつじゃないでしょうかね。効かんごとならっしゃると、只の大黒様になるから、放り散らかされる。熊谷さん方のごと、ありゃ百年間も蔵の隅に、ほうからかしてあった。もう真っ黒うなった大黒様を、いわゆる大黒様奉斉という事が言われる様になってそれを持って見えた。それは百何十年も前のですから、何とも言えん土で作った大黒様ですけどね。
鼻の低か具合私によう似とるです。それは何とも言えん大黒様です。所がどうですかその奉斉をされた翌る日、二百万円コロッと入ってきた。それから続いて千万円近くの金が入る様な段取りが出来たです。また実際入って来たです。それこそ思いもかけない事だったです。その代わりにまた拝み方が違う。親先生の御写真も拝む。それには毎朝お茶が親先生お好きだからと言うて、お茶をお供えなさるげな。
大黒様を奉斉させて頂いたから、大黒様には親先生が、この頃からあんなに沢山お水を召し上がるから、しかも冷たい氷を浮かせたお水を頂きなさるから、氷水を作ってお供えをしておるとです。何とはなしに大黒様と通うのです。大黒様が余計ニコニコして喜びなさる感じがするのです。そういう実感が交流する所からです。取次の働きはそこに生き生きと生れて参りましてです。思いもかけない金銭の上にでも是は金銭だけの事ではないですけれども、一事が万事に御都合お繰り合わせが頂けるようになる。
大黒様をお祭りさえすりゃそういうおかげが受けられるという考え方では、だからいけないのです拝みさえすれば良いと言う事ではない。先日の一日の御月次祭の後に、ここで、富久信会という会が、今度発会致します。これは合楽でおかげを頂いておる、商売人の方達ばかりの集いなんです。または事業の一つもなさっておられるという、方達の集いなんです。その説明会がございました。秋永先生が後でやって参りまして、今度の富久信会は、何か楽しい会が出来そうですと言うのです。
それはどういうことかというと、今まではここに様々な会が沢山ありますよね。菊栄会とか、松栄会とか、黄楊会とか。勿論婦人部壮年部、青年部といった様な、様々な会がありますけれども。最近沢山新たな御信者さん方が増えておるけれども、どの会にも所属してないという方達が、沢山あるのです。だからそういう方達がです、今度富久信会が出来るなら、一つ参加でもさせて頂きたい、説明を聞かせて貰いたいという方達が、いっぱい、月次祭の後に残っておられたということを聞きました。
そういう意味で有り難い事になるな、有り難い意味合いでの、信心研修が出来る。そこから、信心を元にした事業であり、商売であることになって来れば、いよいよおかげの受けられる、合楽の本当の力にもなれる様な会が、誕生しようとしております。私はそのことを聞かせて頂いて、又皆さん帰った後に、夜中にここに出て参りました。そして富久信会のことについて、金光様にお願いをさせて頂いておりましたら、私は始めてそう言う事が分りました。大黒様が袋を担いどられますね。
あれは大黒様の事だから、福の袋であり徳の袋であり、あれはいうなら宝物の入った袋かとばっかり思うておった。ところがあれは何と難儀の入っておる袋。それをお道の信心でいうならば、修行が詰まっておる袋。銘々が持っておる難儀の入っておる袋が、あの袋だそうです。お互いがどうでしょうか難儀から解放されたい。早う難儀からこの難儀を外したい。だから重いものはそこに置きたい担ぎたくない。只魅力は打出の木槌だけ。そういう考えでです、如何に拝んだ所で、これは矢張りおかげにならんです。
大黒様の奉斎する様になったら、金銭のお繰り合わせが本当に不思議に頂ける様になった。それは生き生きとした、大黒様に対する拝み方の中から、親先生と交流した。その生き生きとした心がおかげを呼んだでしょうけれども、段々大黒様の本性というか、本体というものが、実体はどういうものかと言うと、どういう難儀でも平気で袋の中に詰めて持てる力を持つことが、まず先決だと言う事なのです。
それでも矢張りそれこそへとへとする様な、目の前が真っ黒うなる様な難儀に直面しますとです。それがとても自分一人では持てない所にです、先日嘉朗さんが言ってました様に最近の合楽の信心は、自力から他力に移ったと言われるのですから、とても私では持てないもの。そこで親先生力をかして下さいという様な思いで拝まして頂く様になったら、この頃新たなおかげが頂ける様になったと言うております。
自分の持っておる難儀を、自分で持ち得ない。自分が苦痛を感ずるなら、そこに親先生のお徳にすがるというか、力を貸して下さいということになるのです。ですからここの袋を担いでおるそのこと、難儀を難儀と思わないそれを修行と思うて受ける。おかげで力が出来ますという頂き方にならせて頂く所からです。この打出の木槌が、打出の木槌としての働きをする様になるのです。
これは今度富久信会の方達が、ただ打出の木槌だけに目当てであり、それが魅力であると言った様な考え方から、富久信会に入会したいと言った様な事では、おかげにならん。苦労を物ともしない。いやむしろそれを押し頂く様な心の状態を、開くために信心の稽古をさせて貰う。おかげで信心が出来ますと言う様な、在り方にならせて貰う。そこに初めて、打出の木槌的なおかげが身について来る。
人間の幸せ、人間の幸福の条件のすべてがです。打出の木槌から振り出され、打ち出される様なおかげも、また頂けると言う事になるのです。だから富久信会は、大変深い信心を目指すという意気込みがなからなければ、本当の富久信会の会員にはなれないという感じが致します。本気で信心を進めます。本気で修行を苦労とは思わずに、修行として受けて行きますという行き方がです。身につかなければならないと言う事が分かります。そういう意味合いに於いてです。
皆さんのお家に、それぞれお神様がお祭りしてある、大黒様が奉斉された。そういう内容の信心を段々に頂いて行く内にです。本当の意味に於いての神様を、そこに感ずることが出来る。自分の家庭で感じることが出来、そしてお広前に出れば尚更のこと、間近に神を見聞きすることが出来る。私は信心をまずは頂かなければいけない。その神様が頂けてこそ初めてです、大空一杯に三代金光様を私が拝んだ様にです。
天地いっぱいに広がって下さる所の、生神金光大神様の御取次の働きというものがです。天地の間に起きてくる。しかも私達の前に現れて来る問題のすべてがです。神様が私に下さるものだとして、甘い辛いは言わずに済む様な初めの間は臭いと思うておった。初めの間は苦いと思いよったけれども、金光様金光様で頂きよったらニンニクの様なものを頂くことによって。
体が健全になるとか苦いセンブリであったけれども。それが胃腸が健全になるとかという様な、いつの間にか、心が健全になって行っておる。その健全な心がです、難儀を難儀と物ともしない。平気であの袋が担げれる様になる。そこに打出の木槌的なおかげがフルに頂ける様にもなる。そういうおかげを頂く様にならなければ、本当の意味に於いて天地を神として、空が神下が神といわれる。
その神様を実感として、肌に感じれる様なおかげにはなって来ないと思う。天地の御恩恵の中に在りながらも、御恩恵を御恩恵として、心でキヤッチする事が出来ない。天地の御恩恵を、思えば思うただけでです、有り難いものが湧いて来る様なおかげになって来ない。そういうおかげを頂くために、まず身近な所から、神様を知りたい体認したい。実感として、神様を分からせてもらう信心。
まずは一つ本気で合楽通いをすること。そこに神を見るだけの銘々の信心を頂くこと。なるほど生神金光大神様のお手代りをなさる先生だけはあるなという様に、皆さんの心で頂けるところまで高められて行かなければいけない。それこそ親先生は私の心の太陽だと、頂けるところまで、信心を進めた時にです、初めて天地を神は神としての拝み方頂き方が出来る様になると思います。
どうぞ。